by mazurka-mazurka
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保育園から帰ってきて休憩したらいよいよ空港へ。 帰りも友達の旦那様が空港まで車で送ってくれました。最後までありがたかった。 友達にバイバイする時は寂しくて涙😢 また会えると分かっていても別れは寂しいもんですね。 この旅で私たち親子が一番充実していたのはベルリンの友達の家でお世話になった時間でした。親子で満たされた。ほんとに感謝しかないです。 ありがとうありがとうありがとう! 帰りの車の中は私と娘と旦那様で、滞在中にも少し話をしていたんですが、とてもとても私にとって興味深い話だったので、記録としてここに書きます。 私はもともと東ヨーロッパの社会主義または共産主義から民主主義に変わっていった時代の背景にとても興味があり←なぜか分からないんですが… あ、興味ない方はここからスルーしてください。 春江一也さんの、プラハの春、ベルリンの秋、ウィーンの冬というシリーズ化している本を何度も読み返し、東欧諸国の人々がどんな風に社会主義、または共産主義の中暮らしていたか、そこにどんな不満が募り民主主義への扉を開いて行ったのか…1950年代から少しずつ始まりかけた民主主義への動きは、56年のハンガリー動乱や68年のプラハの春など、ことごとくソ連軍による鎮圧に屈してきたこと、86年に起きたチェルノブイリの事故の後、急速にソ連の力が衰退していき、遂にベルリンの壁が崩壊した89年。と、とにかくこの時代の移り変わりになぜだかとても興味があるんです、昔から。きっと前世はこの時代なのかもしれない。あ、78年生まれですけど…(^_^;) 友達の旦那様は、東ドイツ出身で、東ドイツでは有名なピアニストでした。今は東西ドイツが一つになり、旦那様もピアニストからピアノ販売会社を経営される職業へと変わりました。 彼は東ドイツではおそらくとても稀な存在で、というのは、彼は15歳からピアノを聴衆の前で弾き始め、21歳の頃には世界中でリサイタルをしていたので、あの東ドイツの若者が自由を求めて西へともがいていた頃、自由に東西ドイツを往き来できたのだそうです。 ベルリンの壁が崩壊した時、彼はすでに大人で、あの世紀の瞬間を生きたベルリナーで、私は本当に興味津々で彼の話を聞きました。 ちなみに英語での会話なので、半分くらいしか聞き取れず、友達に訳してもらった部分もたくさんありますが、今回聞いた話の中で一番興味深かった話。 友達のお家は、ベルリンの目抜き通り、大阪で言う御堂筋のような中心地にある135平米の広い広い日本でいうマンションなのですが、彼曰く、そのお家は、東ドイツ時代だったら30ユーロ、ピザ3枚分の賃料で一ヶ月借りれたよ、と言うのです。 え??こんな広い家が一ヶ月30ユーロ?! この話に私は驚愕しました。 彼曰く、東ドイツ時代は、住むところ、主食として食べるもの、は驚くほど安かったそうです。 さすが社会主義。ですが、その安さは想像を超えていて、え?そんなに安かったん? じゃあ東ドイツ時代、東ドイツの住民たちは住むところや食べるものには全然困らなかったん? なんとなく社会主義国というと、特に当時の東ドイツと西ドイツを比べると、東ドイツは経済面で苦労していたイメージだったので、ピザ3枚分のお金で135平米の家が借りれたという話に私はとても食いつきました。 なぜかというと、例えばニューヨークのハーレムや東ドイツにアーティスティックな壁画が多いのは、自由を求める若者の社会、政治、生活に対する不満の象徴というか、特に東ドイツに関しては自由が抑制されていることへの不満や自由への憧れを描き始めたことが今も数多く残る壁画の始まりだと言われています。 なぜ、ピザ3枚分の賃料でこんな広い家が借りれて、お腹いっぱい食べることができたのに、壁が壊されるほどの不満が募ったのか。 募った原因はなんなのか。 彼は、自由とチャンスがなかったこと。かなと言いました。 若者にとって、仕事があり、部屋があり、食事が食べれることは人生の満足感を得られることではなかったんやなぁ…と、自由とチャンスがどれほどの意味を持つのかと生まれたときから民主主義の日本に暮らす私には想像を超える話でした。 そして、自由とチャンスをつかめる国に生まれるということは当たり前ではなくラッキーなことなんやと深い感銘を受けました。 この話は私が経済的にも恵まれた日本という民主主義の国で生まれ暮らすからの感想で、例えばこれが食べるものさえ困窮する国に暮らす人々からするとまた違う感想になるんだと思う。 兎にも角にも、自由とチャンスというのは、国を壊すほどの原動力になるという事実。私の中で社会主義、共産主義から民主主義への脱却というのは、想像の中では大きくは経済的なことへの不満が募るという風に考えていたので、現実にこの革命時を生きた彼から自由とチャンスという言葉が出たことに本当に深い感銘を受けたという話です。 ただ、最後に彼は、まぁ、当時の東ドイツの人々の本当の気持ちは私には分からない、なぜかというと私は当時から自由に西と東を往き来できる恵まれた環境にいたからだ。と言っていたことが、とても印象に残っています。 ベルリンには、今も当たり前ですが、壁があった名残が見てとれたり、車で走っていると、ほら、この道路の右側は東ドイツ、左側は西ドイツだったんだよ。と彼が教えてくれ、そう思いながら見ていると、やっぱり旧東ドイツ側のほうに落書きも多く感じるし、寂寞とした佇まいを感じます。 自由とチャンス。 尊いなぁ… ベルリンの壁崩壊はたった27年前のこと。 バイバイベルリン。 楽しかったね。ありがとう◯
by mazurka-mazurka
| 2016-03-05 15:07
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